ちょっと変わった都市伝説をまとめた、都市伝説大百科
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『奇跡体験!アンビリバボー』の記念すべき第1回(1997/10/25[土]))の放送で、『見たら必ず死ぬ謎のツボ』として霊薬・猿酒が紹介された。
猿酒は猿の肉片が漬け込んである塩水のようなもので、甕(かめ)の中身を見た者は間もなく死ぬと伝えられている。
猿酒の甕:『菅江真澄遊覧記 雪出羽道 平鹿郡14』より
猿酒は猿の肉片が漬け込んである塩水のようなもので、甕(かめ)の中身を見た者は間もなく死ぬと伝えられている。
猿酒の甕:『菅江真澄遊覧記 雪出羽道 平鹿郡14』より
[猿酒の由来]
一般に猿酒は果実を発酵させた酒を指すが、中身を見ると死ぬという猿酒は江戸時代以前より秋田の旧家に伝わる門外不出の霊薬である。
江戸時代の紀行家で博物学者の菅江真澄は東北を旅し、見聞きした人々の暮らしぶりや風習をメモに残して本にした。猿酒はこの紀行文にも登場し、秋田の平鹿郡一帯では有名な話であった。
言い伝えによると、猿酒は前九年の役(1051-1062年)の頃に作られたとされ、製法は大猿3匹の肝と背肉を30日間水にさらして、それを日に乾かして美酒に漬け込む。その後、炎天下で干したあと塩水に3年漬ければ猿酒となる。
猿酒は島田源助なる武士が所有していたもので、後三年の役(1083-1087年)で主君の城が落城した際に、家宝であった猿酒を持って山内村の田代に身を隠した。
猿酒はお腹の病に良く効く秘薬であったので、島田源助は薬売りとして生計を立て、その地に定住したという。
猿酒は今も現存しており、島田源助の子孫が厳重に保管している。
・民話にみる猿酒
『金沢の城主、家衡の家来島田某という武士は後三年の落城の時、代々伝える家宝は菩提寺の祇園寺に寄付して猿酒の甕一つだけを持って、山内の田代邑に身を隠し、生計をたてていた。この猿酒は、実父が清原武則の代に猿三頭を捕って、皮と筋肉を去り、胆と背肉を30日間、寒水にひたし、これを日に乾して美酒に漬け、炎天に乾した後塩水に入れて甕におさめ、蓋をして3年経って出来るものである。またとない良薬である。』
横手の民話伝説
『山内村の嶋田源助という家に「サル酒」というものがある。1000年近くも昔、都から来た八幡太郎義家に、清原武則が味方して陸奥の安倍貞任を倒した「前 九年の役」という戦があり、清原は出羽・陸奥を収める豪族となった。その武則の代に山のサルを3匹捕ってきた。サルの皮と筋肉を取り、胆のうと背肉を水に さらし、1月ほどひたす、日に乾かし酒に漬ける。6月の太陽に乾かし、塩水に3年漬ければ「サル酒」となる。1000年たっても悪くならない秘薬として腹の薬だった。「後三年の役」の後、嶋田源助という武士がサル酒を持って山内村の田代に身を隠し、腹の薬として売り歩いた。あるとき、金沢も祇園寺の和尚が サル酒のかめの中を見せてくれ、と頼む。断っていたが死んでもいい、というので見せると1年もしないうちに和尚は死んでしまった。それから何十年か後、同じ寺の和尚が先祖が死んだのが本当か試す、と言い見せたが、やはり1年して死んでしまった。それから嶋田の家では薬も売らず、誰にも見せない家宝の神様、 としておまつりした。』
横手盆地のむかしっこ
[中身を見たら死ぬ猿酒の祟り]
猿酒の中身を見たものは死ぬという伝えがあり、所有者の家では家主以外は触ってもいけないとされていた。
その昔、とある和尚が中身を見たいと言ってきたが所有者は断っていた。しかし、『死んでもいいから見せてくれ』と懇願されて、しぶしぶ猿酒が入っている甕の中身を見せたところ、和尚は1年も経たずに亡くなったという。
それから数十年後に、同じ寺の和尚が『先祖が死んだのが本当かを試す』と言い、しぶしぶ猿酒を見せたが、やはり1年して死んでしまったという。
なぜ中身を見たら死に至るのか?これを解くヒントが菅江真澄の紀行文にある。
・猿酒に宿る女神
『雪の出羽路』では、「源助」家伝の「猿酒」に触れて、『世はひろしといへども、清原ノ家に伝えて、この酒殿のおほみ神は、女ノ君にてさふらへば、此酒もてよろづのやまふを癒すしるしをうる也。あなからいから、しょっからの酒也』山と川のある町 歴史散歩:第一章 御嶽山と盆地より
菅江真澄の紀行文によると、猿酒には女神が宿っており、病を癒す力はその霊力によるものと解釈できる。
小桑やアケビなどの果実の発酵酒の猿酒にも、ある種の霊力が宿っているようで、民話において人間がたまたま山で見つけた猿酒を持ち帰ると、猩々(猿に似ている酒好きの妖怪)が猿酒を取り返しに来るという話がある。
神秘の霊薬である猿酒は大猿から作られているというが、民話において大猿は妊娠した猿を指している場合もあり、『冬の大雪の日に老松の影で大猿を見つけ、命乞いをするのを無視してこれを射た。調べてみると妊娠した猿で、その祟りで家が没落した。』という話が伝わっている。孕み猿の祟りより
猿酒の大猿が妊娠したメス猿だとすると、1頭の孕み猿でも家を没落させる霊力があることから、3頭の猿が原料になっている猿酒に込められた霊力の強さはかなりのものとなる。
また、猿酒に宿る『女ノ君=めのきみ』は猿女君(さるめのきみ)に通じ、古来猿女君は巫女を指した。飛躍した想像ではあるが、もし巫女が猿酒と関係しているとなると、また別の恐ろしい話となる。
猿酒に使われている3頭の大猿とは一体何の事を指しているのであろうか?
・アンビリーバボー第1回のテレビ欄
「今宵、摩訶不思議へご案内。
秋田の民家に、十一世紀から伝わる「猿酒」を入れたカメがある。
酒と言っても、カメに“天日で干した猿”と水と塩を詰めただけの代物。
その昔、腹痛に効くと愛用された薬だった。
しかし、千年も前の「猿酒」の『猿』、原形をとどめてはいないはず。 持ち主曰く
「カメの中をのぞくと死ぬ。 現に死んだ者もいる。 絶対見てはいかん。」
…本当にカメをのぞくと死んでしまうのか。 はたして「猿酒」とは…」
アンビリバボー
[伝説の猿酒は現存している-昭和8年の新聞記事より-]
『菅江真澄時代の猿酒現存する 平鹿郡○○村に
今から1世紀前の偉大なるジャーナリスト菅江真澄翁の「雪の出羽道」に 奥羽の武将清原武則時代からの霊薬として誌された「猿酒(えんしゅ)」が 約千年後の今日まで甕(かめ)そのまま平鹿郡○○村の山深き一農家の家宝として秘蔵されているという不思議な事実がある。
◇
猿酒とは 野性の猿猴(えんこう)が果実、木の実等をとって蓄えて置いたものが自然に発酵したもので 人間の葡萄酒製造への鍵となったとも云われているが この「猿酒」は全くのアルコール分なしの正真正銘 猿を原料とした薬なんである
「雪の出羽道」平鹿郡の巻から引用すると
○○村に代々○○源助という旧家あり この民家に猿酒というものを造って沽(こ)る也、これは腹の病にしるしありといえり この○○が上祖は伊勢ノ国より来る人にて 創は山北(現在仙北)金澤に居住して家衡に仕う (秋田叢書巻七、570頁)
◇
その○○村というのは○○村○○字○○部落であり島田源助の後裔(こうえい)は連綿として同部落に残り 当主は○○氏である、
横黒(おうこく)線○○駅から○○川の上流に沿うて淙々(そうそう)たる川瀬の音に和して麗々と清く澄んだ河鹿(かじか)の音に聴きほれながら山道1里半という所に○○部落がある、藁(わら)ぶきの一見貧農としか想えない○○家は 初夏の明るい太陽の下に屋内は惨めな程暗い
「猿酒」はその一室に甕(かめ)のまま木箱に納めて奥深く秘められ 戸主以外には家人といえども手を触れられない家憲というのである、その戸主たる○○氏がその日は木流しに山に行ったとあって留守というのである
◇
しかし「猿酒」については 現存する誰も知らない程詳しく真澄翁が記録している-- 金澤の城主家衡の家人が 家衡の父清原武則時代、大猿3頭を捕獲し 皮と筋肉を去り 膽(きも)と背肉を寒水に浸すこと30日 そして日に乾し美酒に漬け又6月の炎天に乾して後 更に塩水に浸して甕に入れ蓋をして3年間密封して置いたというのがそもそも故事来歴なんである、
そして1盞(さん)飲めば同量だけ塩と水を入れ 汲み出す毎に補充すれば「千歳を経るともつゆかわる事なし、病(やまい)癒(なお)る事またなき薬也」と真澄翁は百年前に証明している。
◇
後三年落城の際 この「猿酒」を甕のまま持ち出したのが島田源助で 幾山越えて○○の○○邑(むら)に逃避し 永久の住家を定めたわけである
その代までには同家に鞍、鐙、刀槍などがあり 鞍、鐙は菩提寺金澤町祇薗寺に寄付したことになっているが 現に同家から出た古刀が横手町○○氏方に所蔵されている--
叩頭(こうとう)懇願 やっとのことで持ち出された神秘の甕は 通称四ツ椀を添えて丁寧に木箱に納められ 飴色の土甕はさすがに年代を経ているため底部なんか多少缺潰(けっかい)の跡を見せている、高さ1尺8寸5分(56cm) 口径7寸(21cm)、周囲3尺8寸5分(117cm)、正に真澄翁が図解までして記したものに間違いない。
◇
四つ椀というのは大小四重ねの木椀で 一番大きいのは径五寸(15cm)、2合5勺(0.45ℓ)入り、口径7寸(21cm)の甕から汲み出すには親指と中、薬指の3本で椀の端をつかんで上げなければならないので 相当呼吸がいるんだそうである
そしてくみ出す時の音は 液体というよりも金属的な不気味な音がして 女子供は物の怪のようにおそれるという 当主の叔母に当る婆さんでさえ「戊辰の役の際 甕を抱いて山にかくれた時見ただけで絶対見せられなかった」と言っている
「猿酒」の効能は 腹の病一切、殊に霍乱(かくらん)即ちコレラなどにはてき面に効くと信ぜられている 分析化学的なことはこの際問題ではない、数百年来「秘薬」として伝統を続け 1世紀前菅江真澄によって紹介されている「猿酒」が現存することは 一つの奇蹟ではではなかろうか、但し猿酒は現在は売ってはいません(宮崎生)』
菅江真澄時代の猿酒現存する 昭和8(1933年)年の秋田魁新報の記事
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